おはようございます!亀井弘喜です。
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「名付け」という制限
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関係性に名前がついたのはいつの時代なのでしょうか。
※当記事は数年前に書いたものを加筆修正しています
友だちのことを友だちと呼び、
親友のことを親友と呼び、
恋愛のことを恋愛と呼び、
夫婦のことを夫婦と呼ぶ。
でも名付けというのはとても不思議な概念です。
例えば、「俺たち友だちだよね」とある二人の人間が会話していたとして、その二人にとっての「友だち」の概念は微妙に違っているのです。
あるいは、「私たちって恋人だよね」とある二人の男女が会話していたとして、その二人にとっての「恋人」の概念も微妙に違っていることでしょう。
関係性に名前をつけないと人間はどうなるのでしょう。
不安になるのでしょうか。
僕は、不安にはならないタイプのようです。
むしろ、名付けた瞬間からどこかで窮屈さを感じる不思議な性質すらあるようです。
名付けの反対の概念を考えてみます。
「名付け」の反対とは?
正解はないけど、僕の感覚では、
「存在する」
という感じです。
「ただ在る」
といってもいいでしょう。
大切な人が目の前にいたとき、その人との関係性に名前なんてついていないことが最近よくあります。
正確に言えば、名前をつけようがないという感じです。
無理やり名前をつけようとすると、いつも「魂の友」とか「魂の家族」となってしまうのです。
でも、それでいいのではないかとも思います。
魂の友が、魂の約束を果たすために、再会し何かをともに体験する。
それ自体が目的だったとしたら、意味とか名付けとかにとらわれる必要はなくなっていくことでしょう。
そういう意味ではこのメルマガを読んでくださっているあなたと僕との関係も不思議なものです。
「書き手」と「読者」と名付けることもできるでしょうけど、僕にはそんな感覚はありません。
「心の底から湧き出ることを表現する自分」と「それを受け取ってくれる大切な存在としてのあなた」がそこにいるだけです。
名付けることができないとき、僕は一つの言葉にいつも変換します。
それは、
「愛している」
ということです。
「愛している」
それだけで名付けの欲求は十分満たされるのは僕だけでしょうか。
今日も愛に満ちた1日の始まりです。